南米パラグアイの民族楽器アルパを弾き、語る Kayo。マルチに活躍する彼女の思いが覗けるページ。


by Kayo-arpa
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カテゴリ:Profile( 3 )

現在

アルパ、フルート、ダンス、パーカッション、そしてお喋り!
色々担当する Kayo は様々な場所で活躍している。

ライブハウス
レストランでのBGM、
ホテルのロビーコンサート、
ウエディングの生演奏
幼稚園、小学校、中学校、高校でのライブトークショー
成人式のアトラクション
平和コンサート(広島、沖縄)
企業イベントのアトラクション
お祭り、ショッピングモールなどでのイベント

その他、必要とされる場所には喜んで行っている♪

2004年にアルパの名曲を収めた1stアルバム
「Jasy Moroti」(ジャスモロティ)白い月という意 
をリリース。

2010年には初のオリジナル曲を収録した2ndアルバム「EQUAL」をリリース。


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by Kayo-arpa | 2007-10-09 22:09 | Profile

プロフィール 後編

自殺を決めた日、私は今やらなければいけないことが明確に、
そして次々に頭の中で巡った。
「方法」である。

本やインターネットを使い、検索した。
痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だった。
だから、大きな道路へ自転車を猛スピードで走らせ
横切ろうとした時に大きなトラックにひかれてさようならすることにした。
決まればあとは簡単!
決まったその瞬間から私のその時生きてる時間が華やいだものになった。
「死ねる!」その希望を持ったからだ。

前日に迎えたある日、
いよいよか!とベッドに座っていた。

その時、19歳だった私の生まれた時からの人生が走馬灯のように
頭を駆け巡った。

覚えているはずもない、生まれた瞬間に戻った。
この世界を知った初めての時。
母が安堵している、家族が笑顔だ、皆が喜んでくれている、
宝物のように扱われていた。
大事に育てられ、家族4人での生活を幸せに送っていた。

ある時、父の仕事でパラグアイへ行く事が決まった。
両親はパラグアイへ行く前の研修のため、東京へ1ヶ月か2ヶ月ほど行くことに。
残された兄と私は、田舎の祖父母の元へ預けられた。
それがどれほど淋しかったか。2歳のころだ。

間もなくパラグアイへ行き、現地の幼稚園へ入園して2年。日本人学校へ1年。
すぐにスペイン語を覚え、近所にいる友達や、家にいるメイドとおしゃべりを
楽しんだ。
とにかく自由だった。のびのびしていた。

やがて、日本へ帰国。
なぜそんな「ニホン」という国に行かなくてはいけないのか分からなかった。
私はパラグアイに住んでいたかったのに。

その後のフラッシュバックは前編で書いたようなこと、
そして友達や先生、近所の人、私に関わった人々、物、風景に移り変わった。

19歳のその状況に辿り着いた時、
ふと我に返った。

「待て!私は19年間一人では生きてこられなかったんじゃないの?」
「生まれたとき、両親がいて、家族がいて、親戚、ご先祖、友達、先生、近所の人、
あるとき全然知らないのに助けてくれた人たち...」

19年生きるために私に関わり、支えてくれた人の数は数えきれなかった。
私はその人たちに何の知らせもせず一人孤独に「死」を選ぼうとしている。
それってかなり自分勝手じゃない?迷惑じゃない?あんまりじゃない!!!

これじゃいかん!!!!!!
「誰か一人」だけに言って、さようならしようよ!

、、、、、はははは。
そのもの自体を辞めるのではなく、誰か一人に告白すればいいのだ!
と、その時は随分納得した。
その一人。 誰にしようか、すぐに決まった。
それは私の母親だった。

梅田の喫茶店に呼び出し、「死のうと思ってる」ということを伝えた。
「生きているのが辛い」と。
すると彼女は
「そうか、、、、、しんどかったな、、、、、」
「まぁ、ええけどな」
と発した。

「!?」 なに!?「ええけど?」
いやいやいや、覚悟はしてるけど、一応イメージしてますやん。
私が母にそんな一大事な事を言ったらきっと彼女は、まず泣き崩れる。
そして
「お母さん、、、(うぅ、、、(泣き声))
そんなにかよちゃんが辛い思いしてるって知らんかった。
でも、大事な大事な子どもやねん!!!そんなんやめてぇぇぇぇぇぇ!!」
って言うイメージを想像してたんですやん。(笑)

なななななななな、なのに!
真逆のことを言われて「へ?」って。

しかし、「へ?」と思った瞬間母が言った次の言葉が私を救った。

「でも、あんた 今せっかく生きてるんやから、
もし「やりたい」ことがあるなら、全部しきってから また考えたら?」

これだった。この一言だった。

「自分が気持ちいい事」「やりたいこと」をすればいいんだ!って気付いた!!
実は私、日本へ帰って来て逆カルチャーショックを受けていた頃、
日本ではあれもだめ、これもだめと学んだ。
じゃあ、日本で、この社会で生きて行くためにはなにをしたらいいの?
って自然に考えるようになっていた。
自分で出した結論はこうだ。
「大学まで行って、卒業して、そこそこの企業に就職してOLになる。
それからぼちぼち独身ライフを楽しんで、恋愛して、みごと寿退社!
家庭に入って子ども2、3匹産んで、子育てに奮闘する。
一生懸命育てて、子どもを成人させて独立させて、その後孫を楽しみにしながら
老後ライフを送る。。。。」と。まぁこんなもんだった。

ぐぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!
こんなの!本当に私がやりたい人生なの!?
違う!違うよね????
でも、そうしなきゃならないと、自分で自分の人生にレールをビッシリ敷いていた。
それが苦しかったんだ。やりたくないのにやろうとしてたことが。
勉強嫌いなのに、大学まで入っちゃってさ。
そりゃ行けなくなるよ!(笑)

私は「やりたいこと」があった。
そう!大学を辞める事!
母に打ち明けた翌日には退学届出してました。

そして、自殺もやめた。
「こんなのもったいない!やりたいこともやってないのに!」

次にしたいことって????
「        」
なし。なかった。
なぜか? それは、長年の積もりに積もったストレスで夢も希望も見失っていたから。
じゃあ、なぜそんなにストレスだったの?
そんなストレスを抱えてきたあなたって一体何者なの???
私ってなんなの?
そう疑問を感じたとき、やるべきことは決まった。
「自分が何者なのか、原点へ戻るべきだ」
「私の原点はパラグアイじゃないのかな?」

「私! パラグアイへ帰るわ!!!!」

この一言で、成人式を迎えたその年にパラグアイへ帰る事となった。
でも、せっかく日本の真裏にあるとおぉーい国へ行くのだったら、
自分を見つけるついでに何かを成し遂げてこようではねーか!!
と、元々音楽が大好きだった私は、燃えるようなエネルギーでアルパを学んだ。

何度も飛行機を乗り換え、何時間もトランジットに時間を費やし、
ようやく着いたパラグアイは私を優しく出迎えてくれた。
空港を出たとき、思い切り吸い込んだその空気。
それが私を縛り付けていた全てのものを解かした。

「私が求めていたのはこれだったんだね」

国の匂いは私の原点だった。
それを消化できた時、「日本なんて息苦しい!」と思っていた私に変化が。
遠く離れて日本を見たとき、日本は素敵な国だった。優雅だった。
受け入れることができた。日本人でよかったと初めて思った。

今はパラグアイはもちろん、日本も愛してる。
でも、どちらにも囚われない。

私は私を大事にしたいと心から思う。
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by Kayo-arpa | 2007-10-09 22:05 | Profile

プロフィール 前編

Kayo

幼少時代を南米パラグアイで過ごす。
3歳から6歳までの3年間、という短い期間ではあったが、
その間に人間としての一番ベースとなる「五感」を現地で。
すなわち、外見は純日本人であるのに、中身が日本人ともパラグアイ人とも言えない
ミックスされた状態。

今思えば、、、、
帰国後、幼少ながら逆カルチャーショックにストレスを抱える日々を送っていた。
パラグアイで通用していた文化や習慣は日本で通じなかった。
そのことで怒られたこともしばしば。。。。
「日本で生きるにはこれもあれもしてはいけないのだ」と
自分の中で言い聞かせていた。
でも、考え込むようなことはなく学校は楽しかった。

中学時代に吹奏楽部へ入部し、フルートを担当。
3年間ほぼ365日コンクールに向けてフルートを吹きまくった。
このころも「あんたは変てこりんな子やね」と
言われ続けていたが、本人は特別気にする事もなくのんきに過ごす。

しかし、受験を目前に自分の進路を考える。
普通の高校には通う気は一切なく、
元々 目立つようなことが好きだったので、
他の人が行かないような学校を選んだ。
大阪YMCAインターナショナルハイスクールに入学。

校則もなく、部活も制服もない。単位制のまったく個人責任の学校であった。
規則だらけの学校に肌が合わない、というような子が集まった学校。
みんなすごく個性的だった。驚いた!
中学時代は私はとびきり個性的だと思っていたのに、
群を抜いてみんな遥かに「自分」という主張が強かった。
赤やピンクや緑、オレンジ、金、と様々な髪の毛をしていたり、
服装はロックなスタイルや、フリフリレース一色の人、セクシー系な人やら、
清楚な感じもありーの、アメリカンなスタイルもありーの、、、、
皆、それぞれ自分を知っていた。
でも外見とは裏腹に、勉強は皆ずば抜けてできた。かっちょいぃ!!
すごく刺激的で「うかうかしてらんねぇや!!!」と思ったことを覚えている。
そしてなにより、自由な校風が私をより一層伸びやかにさせた。

「自分に今なにが必要なのか?」 ということを考える習慣がついた。
お洒落や街での遊びに夢中になった。何もかもが新しくて、全部興味津々!!
「お茶をする」という新しい遊びも覚えた!ははは!
バイトもいろいろした!!たくさん海外へも行った!
PHSを友達が持ち始めた頃であった。
私自身は高2?くらいから携帯を持っていたかなぁ。

高校は95パーセント大学進学だった。
私もその波に乗りたくて、受ける覚悟を決める。
「キャンパス」や「女子大生」 この言葉がそうさせた。
なんとも光輝いた言葉だった。
そして、「京都の大学」!!!
これまた偉く素敵に私の心に響き、いとも簡単に大学は決定された。
京都の大学で、共学、パラグアイへ行っていたのでスペイン語。以上。

「京都外国語大学」一校のみ受験。決めたらまっしぐら。
いかに勉強せずにこの大学を物にできるか?を散々考えたあげく、
自己推薦(論文、面接のみ)で10月には合格を決め、最後の高校ライフを謳歌。

晴れて憧れの京都のキャンパスで、女子大生になることができた私!!
輝いた未来しかないと信じていた!
京都で中国人留学生と計4人で楽しく共同生活を送っていた。

しかし!!ある日自分の異変に気付く。
学校へ行けない。どうしても行けない。
気付けばカーテンを閉め切り、外部との連絡を絶ち、学校へも行けず、、、、
「ヒッキー」になっていた!?(ひきこもり)

そこから暗い暗いどんよりした私の「鬱生活」がスタートする。
夜は眠れず、明け方になってようやく眠る毎日。
外にもほとんど出ず、毎日「自分とは何か?」をひたすか考えていた。

「何のために大学へ行っているのか?」
「何のために生きているのか?」
「何のために生まれて来たのか?」
「私に未来はあるのか?」

そんなことを考えていたらしんどくなった。
未来を、明日という日を考えるだけで息がつまりそうになった。
生きる ということが「永遠」に感じられた。恐怖である。
生きていることが無駄に感じてならなかった。

毎日このことを自問自答していた。
そう、話す相手は自分しかいなかった。
自分の考えの中で同じ意見がグルグル回っているだけ。

ある日結論が出た。
「生きていることがしんどい。未来を考えたら吐き気がするほど暗かった。
生まれて来た意味を見いだせない」

「死んでしまおう」

そう結論づいた時、ガチガチに頭を縛っていたものがスルリとほどけた気がした。
楽で、嬉しかった。
「死ねる!」と思った。死ぬっていうことが嬉しかった。
決意した。

「私は死ぬ」
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by Kayo-arpa | 2007-10-09 22:00 | Profile